こんにちは、ちんぱんパパです!
最近SF小説の名作を読むのにはまっていまして、今回は日本SFの最高峰とも言われる、小松左京『果しなき流れのの果に』を読んだので、その感想を書いていきます。
『果しなき流れの果に』とは
『果しなき流れの果に』は、日本SFの大家、小松左京が1965年にSFマガジンで連載していたSF小説です。
「日本SFオールタイムベスト」を選ばせると、必ず1位か2位に挙がるほどの評価をされており、日本SFを代表する作品と言っても過言ではないものとなっています。
『果てしなき流れの果に』あらすじ
理論物理学研究所の助手、野々村浩三は、砂が落ちているのに下に溜まっていかない謎の砂時計が発見された、葛城山麓の古墳に番匠谷教授らと伴に向かうが、全員行方不明もしくは変死を遂げてしまう。
時は過ぎ、終焉を迎える地球のもとに異星人が現れ、人類を安全な別の星へと送ってくれた。しかし、地球人の一人、松浦は異星人アイと融合させられ、アイは以後マツラと名乗るようになる。
異星人が連れていきそこねた地球人もいたが、彼らは別の組織に匿われた。その組織はルキッフという男を首領に、アイの組織と敵対している。アイは、時間を飛び越えて歴史を改変しながら逃げ回るルキッフの部下N(=野々村)を同じく時間を超越しながら追い詰めていく。
アイの組織の目的は、知性のある生物を選別し、高次に導いたり、間引いたりすることだった。彼らが救った地球人は、実験材料にされていた。Nたちは、それに対する抵抗組織だった。
追い詰められたNは、3台の時間機をムチャに稼働させて、自殺的な時間跳躍を試みる。その結果、アイとともに10億年後のパラレルワールドに突入した。そこで、アイはより高次の意識体へと自ら上昇し、宇宙の目的を知ると同時に、宇宙の目的と自らを破壊し、すべてが終わった。
野々村は行方不明になっていた間、スイスで50年間眠っていたことになっており、記憶をなくしながらも日本に戻り、老婆となったかつての恋人と再会する。
『果しなき流れの果に』感想
物語を把握するのに苦労する
実は、最初に読んだとき、少し話が頭に入らなくて、今回2回目の読了です。
じっくり読んだ結果、話の要点は掴むことができましたが、正直やっぱりわかりにくい話だな……という感想を抱いてしまいました。わかりにくくしている点は、主に以下の3つがあると思います。
- 謎が多く、答えがあとの方にならないと出てこない
- 登場人物(特にアイとN、ルキッフ)の立場や目的が説明されず、行動原理がわからない
- シーンが切り替わりまくる
これが全体的に満遍なく発生するため、わからなくてもとりあえず読みすすめるしかなく、その間に新たな謎が出てきて、この人物はどういう人だったっけな〜〜?と前のページをめくり直して、とりあえずどういう行動をとっていた人か思い出しながら読む…という感じで、物語についていくのがやっとでした。これは、誰もがそう感じるところだと思います。
圧倒的知識量による世界観の裏付けが見事
とはいえ、作者の圧倒的な知識に基づくストーリーや設定の完成度は見事だと思いました。
特に、60年代という日本SFが生まれて間もない(多分)ころに、量子力学や多元宇宙論など専門的な物理・宇宙物理学の要素をふんだんに盛り込んでこれるところは、やはり並のSFではない部分を感じさせてくれます。
ハードかどうかと言われるとそこまでハードではないのですが、どちらかというと手塚治虫的な冒険的かつ観念的・哲学的な世界観に満ちており、当時も今も日本人ならこういうの絶対好きだろうなあと思わせる内容だと感じました。
手塚治虫を引き合いに出したところでいくと、どうしてもやはり少し古さを感じさせる表現は多く、今の作品として見れるわけではないものの、日本SFの一時代を築いたベストの作品として語り継がれていくのには、納得の一冊だと思いました。
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