こんにちは、ちんぱんパパです!
今回は、ロボットSFの大家、アイザック・アシモフの名作『われはロボット』を拝読したので、その感想を書いていきます。
『われはロボット』あらすじ
ロボットには、どんなに高度に発達しようと、人間に危害を加えないよう“ロボット三原則”がプログラムされている。
ロボット三原則とは、第一条「ロボットは人間に危害を加えてはならない」、第二条「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない」、第三条「ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない」の3つ。
これらを忠実に守っているはずのロボットがこれまでに挙動をおかしくした例が多くあり、USロボット社に勤めるロボット心理学者、スーザン・キャルビンが過去の事例を振り返りながら、その謎について解説していく。
『われはロボット』感想
ルールの裏をつく叙述トリックが見事
本作は、ロボットが異常を来したエピソードをもとに語られる、短編構成の作品。
一つひとつのエピソードは、どうしてもロボットが故障したとしか思えないふるまいを見せるのですが、蓋を開けてみれば、ロボット三原則に忠実に従った結果、故障したような挙動をとっている、と結論付けられるものが多いです。
自ら付したそのルール設定の枠からはみ出ずに、思考実験を繰り返して推論を進めていくストーリーテリングは見事というほかなく、一気にのめり込みながら読み勧めていくことができました。
特に、「ロボットは人に危害を加えることはできない」という設定からの、人を殴る描写によって人間であることを証明するシーンにはしびれましたね。殴られる側がロボットである場合、殴る側が人間であることを証明できない、という落ちですらかね笑。これには騙されました笑。
ロボットの発想に少し時代遅れ感はあり
ロボット三原則が生まれた背景には、「人間の能力を大きく超えるロボットをどのようにコントロールするか」という前提が含まれているように感じます。
つまり、ロボットは人間の能力をベースにした、意識をもり意思決定を下せる、人間の延長線上にある代替装置という前提が、このころの時代のロボット観に顕著だったのでしょう。
現代のロボット観でいくと、それとは少し異なっていて、現代のロボットのベースはAIによる統計的な提案をするものになっていると思います。
つまり、現代のロボットの役割は、圧倒的に正しい統計的な予測による計算結果を示すもので、そこに意識はありません。意思決定は人間が行うことで、ロボットが人間に危害を加えようのない存在になっていると自分は考えます(もちろん、統計的予測が正しすぎて、意思決定が意志のないはずのロボットに乗っ取られる可能性は全然あります)。
このあたりの認識の違いが、アイザック・アシモフのロボットがレトロフューチャーな存在に感じられてしまい、そこまでリアリティを感じられるものではなかったのが、少しさみしいところではありました。
とはいえ前述のようにアイディアのセンスや話運びは非常に面白く、文学作品としての価値は非常に高いものがあると思います。一時代を築いた、過去の巨匠の歴史的作品として、敬意をもって嗜む作品だと感じました。
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